NHK大河ドラマ【風林火山】…ヒロイン【由布姫】ゆかりの地…周遊モデルコース


NHK大河ドラマ 風林火山 ヒロイン由布姫ゆかりの地

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「武田信玄ゆかりの地」周遊モデルコース

茅野駅 →5分→ @安国寺古戦場跡 →10分→ A杖突峠 →10分→ B諏訪大社・上社・前宮 →5分→ C茅野市神長官守矢資料館 →5分→ D諏訪大社・上社・本宮 →徒歩→ E諏訪市博物館 →10分→ F桑原城趾 →5分→ G頼重院 →5分→ H板垣平 →5分→ I上原城趾 →10分→ J八ヶ岳総合博物館 →10分→ 茅野駅
 コース番号の場所のご説明は下記をご覧下さい。

信玄に関連する場所で構成してありますが、茅野市には国宝などの重要な文化財や沢山の美術館がございますので、そちらと併せてコースをお考え下さい。


@安国寺古戦場跡

天文11年武田と共に、諏訪氏を滅ぼした高遠頼継は諏訪領の半分しか貰えなったのを不服として、諏訪上社の祢宜満清や伊那福与城の藤沢頼親らと結び、上原城を急襲、武田軍はすかさず高遠勢を追い払い上原城を奪還した。しかしあきらめきれない高遠頼継は、伊那の藤沢頼親を後ろ盾に千沢城に拠り、武田軍の甲州と信州の寸断を図った。高遠軍は頼継の弟頼宗ら700人の戦死者を出し高遠城へ敗走した。武田軍の死者は50名余であった。

A杖突峠

武田軍の軍事上の要所として有名な峠。諏訪盆地や八ヶ岳の眺望が素晴らしく、信州三景観に数えられている。 諏訪頼重を攻める際、信玄と結んだ高遠頼継がこの峠を越えて攻めた。その後に信玄に反することになった頼継との対幬や、信玄が伊那を侵攻する際にも利用された。 八ヶ岳、蓼科山そして上原城趾を含め茅野市を一望できる絶景の展望台です。

C茅野市 神長官 守矢資料館

諏訪大社の神官の一つ、神長官を代々務めた守矢家に受け継がれる貴重な古文書を公開展示しております。
【企画展】→4/14〜6/3信玄と諏訪信仰・7/28〜9/24信玄の遺跡・11/23〜12/23勝頼と諏訪

 B諏訪大社・上社・前宮
 D諏訪大社・上社・本宮

信濃国一之宮である諏訪大社は日本最古の神社の一つで日本書紀にも記されている。 諏訪大社は上社(前宮・本宮)と下社(春宮・秋宮)に分かれているが合わせて一社となる。 かつては上社・下社ともに、諏訪明神の依り代(よりしろ)として「大祝(おおほうり)」と呼ばれた神職が頂点に位置し、政治的な権力をも握る支配者として君臨していた。 室町時代には、上社大祝諏方家や、上社大祝が握っていた.政治権力を分割してできた惣領諏訪家、下社大祝金刺家が抗争を繰り返していたが惣領家に権力が集中、諏訪頼満や頼重が活躍する。 諏訪社は風の神、水の神、農耕の神、狩猟の神、戦の神など様々な性格を持っており、ゆえに分社が全国中に一万余社ある。 特に武士たちは軍神としての諏訪社を厚く信仰した。 信玄は、たびたび戦勝祈願や武運長久の祈祷を依頼し、諏訪社の加護を期待して戦に臨んでいる。 戦場では諏訪法性兜を身につけ、諏訪明神旗を本陣に立てていたという。 戦乱が続く世の中で、諏訪社の祭礼が次第に行われなくなっていった現状に対し、信玄は、過去の資料を元に調査し再興を命じた一諏訪上下宮祭祀再興次第(信玄十一軸)」を永禄8年(1565)から翌年にかけて発行、信濃国内の郷村に対して、諏訪社の祭礼を名目に支配の手を伸ぼしていった。

諏訪大社宝物殿 茅野から10分・諏訪から20分

上社宝物殿には「信玄十一軸」や、享禄4年(1531)信虎と諏訪頼満が堺川で和睦するにあたり、神長守矢頼真が間に立ってかき鳴らした御宝鈴を収蔵。

E諏訪市博物館

武田信玄の朱印状など諏訪家の重臣、千野家の古文書や上社大祝家、権祝家の古文書など武田ゆかりの戦国期の資料を多数収蔵している。御柱祭の謎、諏訪信仰の歴史などをビデオやジオラマを使って紹介している。

F桑原城趾

上原城の支城の役割を持つ、中世における諏.訪氏の代表的な城。 天文11年(154・2)に諏訪頼重は武田信玄に攻められ、上原城から退いて桑原城に籠もったが降伏、頼重は甲府で自刃し諏訪家は滅亡した。 主郭、二の郭などの郭や空堀などがよく残り、歩道等も整備されていて見学しやすい。 主郭からは諏訪盆地が一望できる

G頼重院

諏訪頼重の菩提寺として建立され、境内にある宝塔の中に「宝きょう印塔」が納められており、供養塔とされている。 頼重は天文11年(1542)7月、武田信玄に攻められ、桑原城で捕らえられ、甲府に送られ東光寺で自害し、そこに墓はある。

H板垣平

上原城跡の中腹に位置する、長方形の平坦地。 室町時代後期に諏訪惣領家信満がここに居を構えてから5代70年に渡って領有したが、天文11年(1542)、信玄により諏訪氏は滅亡し、その後諏訪郡代に任命された板垣信方の屋敷が造立された。

I上原城趾

諏訪信満が築城したといわれる諏訪総領家の拠点。物語では和議の使者として城を訪れた勘助が、由布姫と印象的な初対面を果たす場面が描かれている。信玄に攻め込まれ統治されるが、天正10年(1582)武田氏滅亡とともに廃城。現在は主郭、二の郭、三の郭、土塁、物見石などの遺構が残っている。標高978mの金比羅山にあり、山頂からは諏訪一円を見渡すことができる。

J八ヶ岳総合博物館

自然、歴史、産業、民俗と未来を総合的に展示。永禄9年(1566)の九頭井大夫矢島家所有の武田家朱印状を収蔵するほか、湯川砦内から出土した経筒・経石や、戦国時代の諏訪上社前宮周辺の展示もされている。

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「武田信玄ゆかりの地」

  市街から少々外れ30分前後掛かりますが、お時間がございましたらご訪問下さい

御射山社

信玄が諏訪頼重討伐の際、この辺りに本陣を敷いたとされる。 諏訪大社上社に付属する摂社で建御名方命、国常立命の二神が祭神。 地元の人々からは「原山さま」と呼ばれ、数え年2歳の厄除けの明神様として親しまれている。

瀬沢合戦場跡

『甲陽軍鑑」(頁下参照)によれぼ、天文11年(1542)2月、甲斐の信玄を攻めようと、甲信境の瀬沢に陣取った信濃の小笠原、諏訪、村上、木曽の四将の軍に対し、動きを察知した信玄が奇襲を仕掛け、大勝したとされている。この戦いを瀬沢合戦という。 戦死者の屍(しかぼね)は九つの穴に埋めて塚を造ったと伝えられ、その九ッ塚は洪水などにより失われ、最後の一つが残つた。

棒道

信玄が北信濃攻略のために開いた軍用道路で、八ヶ岳の麓を棒のように真っ直ぐ抜けている。 上・中・下の三本があったとも言われているが、信玄が新しく開削し、真の意味で棒道と呼べるのは上の棒道のみである。今でもその一部をたどることができる。

御座石

信玄が佐久.小県.北信濃の制覇に向かう途中、休憩したといわれる岩。 樋を張り、御座岩に腰をすえて諸方面からの軍団の集結をはかり、軍議をこらした要所として知られている。 この他にもこの辺りには信玄にまつわる言い伝えがあり、南対岸側にはお金を隠したとされる、銭岩(銭かくし岩)と呼ばれる岩や、軍議の最中に川の瀬音がうるさかっため、信玄が「うるさい、静まれ」と叫んだところ、途端に瀬音が静まったといわれる「音無川」がある。

お茶清水

信玄が建設したといわれる軍用道路、いわゆる「中の棒道」沿いにあって、信玄が北信濃攻略の途次、お茶を飲んだといわれる泉。この付近には、信玄が渋の湯を運んできて入浴したといわれる「湯殿の坂」や、『国(甲斐)へ帰るのはこの道である』と言ったといわれる「国道」などの地名が残っている。

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戦国の世に翻弄された悲劇の女性 諏訪御料人「由布姫」

諏訪御料人「由布姫」
天文11年(1542)、武田信玄は本格的な信濃攻略に踏み出す。 最初の標的は信濃の豪族・諏訪頼重の上原城。頼重は信玄の妹・禰々をめとっており、同盟関係にあった甲斐への警戒心が薄く、一族の分家にあたる高遠頼継が信玄と通じたこともあり、上原城を追われた。頼重は旧交回復のために三度目の古府を訪れた折に殺害され、婚家を兄に滅ぼされた禰々も翌年16歳で病没した。信玄が諏訪攻略とともに得たもの、それが頼重の娘「由布姫」である。「尋常隠れなき美人」と現在にも伝えられる由布姫の美貌を目にした信玄は、当時まだ14歳の由布姫を側室へと望んだのだった。重臣たちは揃って反対したが、山本勘助が諏訪への懐柔策になると進言し、これを説き伏せたという。由布姫は父を殺した信玄の寵愛(ちょうあい)を受け、天文喝年(1546)に後の当主となる勝頼を産む。 しかしその後病の身となり、弘治元年(1555)に勝頼の成長を待つことなく25歳で没したのである。

諏訪御料人「由布姫」の名前

「風林火山」では「由布姫」として登場するが、歴史上での実名は不詳とされている。そのため、著名な作家によって様々な呼び名が考えられた。新田次郎は湖衣姫、観音寺潮五郎「天と地と」では諏訪御料人である。

人物相関図 武田信玄 山本勘助 由布姫 etc

大河ドラマ主人公【山本勘助】

 〜信玄の右腕としてその名を馳せた天才軍師〜

戦国時代の最大の激戦、川中島の戦いは…

物語では、武田家の当主となったばかりの信玄に召し抱えられた山本勘助は、軍師としての能力を発揮する。 天下取りの第一歩として、信濃攻略を進言し諏訪頼重を滅ぼす。 その折りに頼重の娘・由布姫と運命的な出会いを果たし、慕の念を抱くよになる。 由布姫の美貌に心を奪われた信玄もまた由布姫を側室に望み、勘助はふたりの子が天下を手にすることを望むようになる。 自らの思いを抑え、諏訪の血を残すべきだと由布姫を説得する勘助。 由布姫は父の仇敵・信玄の側室となり、やがてふたりの間に勝頼が生まれる。自分を信頼してくれる信玄と、その信玄を仇敵と憎みながらも惹かれる由布姫。 この二人を支え続けることが、勘助にとって生きる上での原動力だった。

甲斐の武田がなぜ信濃に侵攻したのか

簡単に言えば「戦略物資」の確保。加えてそれを阻むほど強大な敵が信濃には居なかったから。「戦略物資」とは現代なら石油などの天然資源だが、当時は何と言っても米。甲斐に比べて信濃には多くの穀物地帯があり、物資確保のためには信濃の土地が是非とも必要であった。とはいえ軍事侵攻となると味方にも多くの死傷者が出る。できれば血を流さずに土地を手に入れたい。信玄の父「信虎」も度々諏訪に攻め込んでいたが頼重は屈しない。ではどうしたか…和睦という懐柔策に出た、攻略結婚である。諏訪を訪れた信虎も美しい由布姫を側室に望んだが、後に晴信(信玄)のクーデターで駿府に追放された。

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信玄関連参考

甲陽軍鑑とは

江戸時代に刊行された軍学書で全24冊の大作。武田家の戦略、戦術が豊富に記載されている。

武田信玄の水中墓伝説

信玄が死に際して「自分の死を3年間秘密にせよ。遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」と遺言したという伝説があり「甲陽軍鑑」(右記)にも同様の記述がある。このため諏訪湖には古くから信玄の水中墓伝説があった。また、武田の墓石金と共に沈めたという説もあり、埋蔵金伝説ともなっている。

高遠城址公園の桜

高遠城 国指定・日本100名城…桜で有名…

改城には山本勘鋤が携り、城内に「勘助郭」がある。 伊那郡を制圧した武田信玄が、天文16年に築かせた。 三峰川と藤沢川の合流地点で険阻な段丘崖上の城。 信玄の弟の信廉、四男の武田勝頼、五男の仁科五郎盛信が城主となった。 盛信は天正10年に5万3千の織田軍に攻められ、ここで壮烈な死を遂げた。 武田氏が滅亡後は保科氏、鳥居氏が入り、元禄4年から明治4年までの180年間は内藤氏の居域となった。 内藤新宿 今年で開園100年の新宿御苑は、高遠藩・内藤家の江戸屋敷跡で「内藤新宿」といわれた。近くにある太宗寺は内藤家の菩提寺で、歴代の当主や一族が葬られております.江戸庶民の信仰を集め、親しまれたが祀られております。

御柱祭 式年造営御柱大祭
 7年目に一度 十二支の寅年と申年に行われる諏訪大社最大の祭り

諏訪郡内の人々が奉仕して、山から「御柱(おんばしら)」と呼ばれる巨木を伐り出し、諏訪大社四社それぞれの四隅に建てる。一般には御柱の曳き建てが祭りの中心ととらえられているため、あまり知られていないが、現在でも宝殿の建て替えを行っている。このことは、御柱祭の本質が伊勢神宮などでも行われている「式年造営」であることを物語る。事実、戦国時代までは、信濃国内の特定の郷村が費用を貿担し、御柱、宝殿はもとより玉垣などの建て替えも行う大規模な造営が行われていた。武田信玄は「諏訪上下宮祭祀再興次第(信玄十一軸)」などを通じて、戦国の混乱に乗じて十分に行われなくなっていた造営を再興するように命じた。信玄の跡を継いで武田家当主となった勝頼は、諏訪家の血をひくものとして、さらに綿密な計画で信濃国中に号令し造営を再興させようとした。

資料:茅野市観光連盟

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